35代 皇極天皇(こうぎょくてんのう)
生没 594年~661年(享年68)
在位 642年(49歳)~645年(52歳)
飛鳥時代
・34代舒明天皇の皇后である宝皇女(たからのひめみこ)が即位し、皇極天皇となる。
・蘇我蝦夷の子、蘇我入鹿が実権を握り、専横の限りを尽くした。
・皇極の皇子である中大兄皇子と、中臣鎌足が蘇我入鹿を討つ(乙巳の変・645)。これにより蘇我氏本宗家が滅亡した。
その後「大化の改新(中央集権化)」が進む。
35代 皇極天皇(こうぎょくてんのう)
生没 594年~661年(享年68)
在位 642年(49歳)~645年(52歳)
飛鳥時代
・34代舒明天皇の皇后である宝皇女(たからのひめみこ)が即位し、皇極天皇となる。
・蘇我蝦夷の子、蘇我入鹿が実権を握り、専横の限りを尽くした。
・皇極の皇子である中大兄皇子と、中臣鎌足が蘇我入鹿を討つ(乙巳の変・645)。これにより蘇我氏本宗家が滅亡した。
その後「大化の改新(中央集権化)」が進む。
34代 舒明天皇(じょめいてんのう)
生没 593年~641年(享年49)
在位 629年(37歳)~641年(49歳)
飛鳥時代
・30代 敏達天皇の孫・田村皇子(たむらのみこ)。
・厩戸王の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)と、田村皇子のいずれを擁立するかで意見が分かれた。
蘇我入鹿は田村皇子の擁立に動き、山背大兄王(やましろのおおえのおう)の上宮王家(じょうぐうおうけ)は滅亡。田村皇子が舒明天皇として即位した。
・舒明天皇の皇后は35代皇極(斉明)天皇。皇子は中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)。
33代 推古天皇(すいこてんのう)
生没 554年~628年(享年75)
在位 592年(39歳)~628年(75歳)(在位36年)
飛鳥時代
・敏達天皇の皇后、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)が、初の女性天皇として即位。
・摂政の厩戸王(聖徳太子)と、蘇我馬子が主導で政治を進めた。(厩戸王は推古天皇のおい、馬子は推古天皇の叔父。)
・「冠位十二階」「十七条憲法」の制定。(厩戸王が中心)
・遣隋使の派遣。
・『天皇記』『国記』といった国史の編纂。
・四天王寺や法隆寺の建立など。
・和風諡号は「豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)」。
・『古事記』の記述はこの推古天皇まで。
32代 崇峻天皇(すしゅんてんのう)在587年~
生没 ?年~592年(享年?歳)
在位 587年(?歳)~592年(?歳)
古墳/飛鳥時代
・泊瀬部皇子(はつせべのみこ)。
・「丁未(ていび)の乱(587)」。蘇我氏と物部氏が戦い、物部氏が敗れる。これ以降、仏教信仰が本格化する。
・実権は蘇我馬子が握っており、軋轢が生じて蘇我馬子によって暗殺されたとされる。
献上された猪を見て「(蘇我馬子の)首も猪のように落としたい」と語り、それを知った馬子に暗殺されたという。
31代 用命天皇(ようめいてんのう)位585年~
生没 540年~587年(享年48)
在位 585年(46歳)~587年(48歳)
古墳/飛鳥時代
・厩戸王(聖徳太子)の父
・父は29代欽明天皇、母は蘇我稲目の娘・堅塩姫(きたしひめ)。
・皇后は異母妹である穴穂部間人皇女(あなほべ はしひとのひめみこ)。
・即位して2年で病に伏したため、仏教への帰依を願うようになった。
・法隆寺の薬師如来像は、息子の厩戸王が亡き用明天皇のため発願したといわれている。(法隆寺は厩戸王が用明天皇の供養のために建てたとされる。)
30代 敏達天皇(びだつてんのう)
生没 538年~585年(享年48)
在位 572年(35歳)~585年(48歳)
古墳/飛鳥時代
・29代欽明天皇の第二皇子
・敏達天皇の皇后は、異母妹の豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)(=33代推古天皇)。
・物部守屋と蘇我馬子が仏教の排仏、崇拝をめぐって対立。
・疫病や天然痘が流行。
29代 欽明天皇(きんめいてんのう)
生没 509年~571年(享年63)
在位 539年(31歳)~571年(63歳)
古墳/飛鳥時代
・26代継体天皇の第3皇子。
・仏教伝来。
ー『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』、『上宮聖徳法王定説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』(538)
ー『日本書紀』(552)
百済の聖明王より欽明天皇に、仏教の経典や、釈迦仏の「小金銅仏(しょうこんどうぶつ)」が献上された。
物部尾輿・中臣鎌子は反対。中臣家は代々神事を司る豪族なので、反対した。
(※藤原鎌足も最初の名前は中臣鎌子だが、これとは別人)
蘇我稲目は賛成した。
・大伴金村と物部尾輿を大連(おおむらじ)(軍事・裁判)に、蘇我稲目を大臣(おおおみ)(経済・外交)にした。
・大伴金村が、任那を百済に割譲した失政を問われ、大伴氏が失脚。
・以降、物部氏と蘇我氏が台頭して対立する。物部氏は仏教反対の「排仏派」派、蘇我氏は仏教推進の「崇仏派」派。
28代 宣化天皇(せんかてんのう)
生没 467年~539年(享年73)
在位 535年~539年 69~73歳(在位4年)
古墳時代
・26代継体天皇の第二皇子。
・『日本書紀』には、清らかでおごり高ぶることのない、君子らしい人物とある。
・大伴金村、物部麁鹿火に加え、蘇我稲目らを大臣(おおおみ)とした。
・那津官家(なのつのみやけ)(博多湾岸・太宰府の起源)に、各地の屯倉(みやけ)から籾(もみ)を運ばせて非常時に備えた。
・新羅に攻められた任那(みまな)からの救援要請に対して、援軍を送るなど、外交も積極策を推し進める。
27代 安閑天皇(あんかんてんのう)
生没 466年~535年(享年70)
在位 531年~535年 65~70歳(在位4年)
古墳時代
・26代継体天皇の第一皇子。
・器量・武威に優れ、人君として相応しい人柄と伝わる。
・各地に屯倉(みやけ)(朝廷の直轄地)を設置した。
・五穀豊穣で民が飢えることもなくなり、天子を褒める声が天地に充満したともいわれる。
26代 継体天皇(けいたいてんのう)
生没 450年~531年(享年82)
在位 507年~531年 58~82歳(在位24年)
古墳時代
・15代応神天皇の5世の孫・男大迹王(おおとのおう/おおどのおう)は、近江(滋賀)や越前(福井)の豪族だった。
・大伴金村に促されて河内国・樟葉宮(くすはのみや)で即位。20年後にようやく大和(奈良)に入った。
・養蚕や農業の振興に尽力した。
・筑紫国(645年に筑前国・筑後国に分割)で、地方豪族である「磐井(いわい)の反乱(527)」が起こる。
磐井は新羅と結んでいた。継体天皇は、物部麁鹿火(もののべのあらかひ/あらかい)を派遣し、これを鎮圧。
鎮圧後は、ヤマト王権の直轄地である屯倉(みやけ)を設定して、筑紫支配を強化した。
「岩戸山古墳(福岡県)」は磐井の墓とされる。石人、石馬などが出土した。
25代 武烈天皇(ぶれつてんのう)
生没 489年~506年(享年18)
在位 498年~506年 10~18歳(在位8年)
古墳時代
・24代仁賢天皇が崩御し、大臣の平郡真鳥(へぐりのまとり)が国政を欲しいままにした。
大伴金村がこれを征伐し、皇太子の小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせの わかさざきの みこと)が即位、武烈天皇となった。
・『日本書紀』には、武烈天皇は「悪逆非道の暴君」になったとあるが、その大げさなまでの記述は、次の26代継体天皇を正当化するためでは、ともいわれる。
『古事記』にはそのような悪行の記述は一切なく、「8年間治めたのち、譲位した」とのみ書かれている。
↓↓平郡真鳥を討つ大伴金村。

(月岡芳年@大日本名将鑑)
24代 仁賢天皇(にんけんてんのう)
生没 449年~498年(享年48)
在位 488年~498年 40~50歳(在位11年)
古墳時代
・24代顕宗天皇の兄。
・弟の顕宗天皇(弘計・おけ)が亡くなり、兄の億計(おけ)が即位、仁賢天皇となった。
・謙虚で温厚。父の仇である21代雄略天皇の墓を、弟が破壊しようとしたのをなだめた。
・11年の治世の間には、五穀豊穣、人口も増え、大いに繁栄したことが『日本書紀』にある。
23代 顕宗天皇(けんぞうてんのう)
生没 450年~487年(享年38)
在位 485年~487年 36~38歳(在位3年)
古墳時代
・17代履中天皇の孫。
・兄の億計(おけ)が皇位に付こうとせず弟に譲り、弟の弘計(おけ)が即位し、顕宗(けんぞう)天皇となった。
22代 清寧天皇(せいねいてんのう)
生没 444年~484年(享年41)
在位 480年~484年 37~41歳(在位4年間)
古墳時代
・21代雄略天皇の皇子。清寧天皇は生まれながらに髪が白かったため、父の21代雄略天皇は特別な霊妙さを感じたという。
遺跡名「白髪山古墳」。白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろ くにおしわかやまとねこのみこと)。
・民を慈しんで善政を敷いたとされる。
・父の雄略天皇が暗殺した、17代履中天皇の子、億計(おけ)・弘計(おけ)兄弟を播磨国で見つけ、たいそう喜び宮中に迎え入れ、跡継ぎにする意向を示した。(『播磨国風土記』志染の石室(しじみのいわむろ)(兵庫県・三木市))
21代 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)
生没 418年~479年(享年62)
在位 456年~479年 39~62歳(在位23年)
古墳時代
・20代安康天皇の弟。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)。
・埼玉県・稲荷山古墳から出土した鉄剣に「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)」とあり、これは雄略天皇のこととされる。辛亥年(471年)。
また熊本県・江田船山古墳でも同様に獲加多支鹵(ワカタケル)大王の名前が刻まれた刀剣などが出土。これらはヤマト政権の支配が広く、関東や九州にまで及んでいる証拠と見られる。
・『宋書』倭国伝の「安東(あんとう)大将軍・倭王武」とされる。
・養蚕を奨励するなど国力の充実に努めた。鉄資源を求めて朝鮮半島へも遠征。
・意にそぐわない臣下は容赦なく放逐するなど暴君としても知られる。
・『日本書紀』には葛城山の現人神(あらひとがみ)として「一言主神(ひとことぬしのかみ)」が登場。雄略天皇は一緒に狩りをした。これは葛城氏と天皇家の関係性を表すともいわれる。
・葛城山でイノシシを自ら倒した。
・『万葉集』の巻頭歌。「籠もよ み籠持ち(こもよ みこもち)・・」。若菜摘みの娘に名前を聞く(=妻問い)の歌。
20代 安康天皇(あんこうてんのう)
生没 401年~456年(享年56)
在位 453年~456年 53~56歳(在位4年)
古墳時代
・19代允恭天皇の第2皇子。
・都を大和石上(やまといそのかみ)(奈良・天理市)に移した。
19代 允恭天皇(いんぎょうてんのう)
生没 ?年~453年(享年?)
在位 412年~453年 (在位41年)
古墳時代
・18代反正天皇の弟。
・即位は当初辞退したが、皇后が厳しい寒さの中懇願したことで、ようやく受け入れた。
・『宋書』倭国伝の倭国王・済(せい)とみなされている。
・日本最古の温泉地・道後温泉に、允恭天皇の兄・木梨軽皇子と、妹が配流され、その地で心中したとされる。
18代 反正天皇(はんぜいてんのう)
生没 ?年~410年(享年?)
在位 406年~410年 (在位5年)
古墳時代
・17代履中天皇の弟
・歯が健康だった。
・『宋書』倭国伝の倭国王・珍(ちん)と見なされている。それが事実なら、反正天皇は宋から「安東将軍(あんとんしょうぐん)」の称号を与えられていたことになる。
・丹比芝籬宮(たじひしばがきのみや)(大阪府松原市)を築く。
・在位5年は五穀豊穣、天下太平であったという。
17代 履中天皇(りちゅうてんのう)
生没 ?年~405年(享年?)
在位 400年~405年 (在位5年)
古墳時代
・16代仁徳天皇の第一皇子。
・都と地方で文書のやり取りをする国司を設置。
・『宋書』倭国伝の、倭国王・讃(さん)と見なされている。
16代 仁徳天皇(にんとくてんのう)
生没 257年~399年(享年143)
在位 313年~399年 57~143歳(在位86年)
古墳時代
・実在が確認できる最初の天皇と考えられている。
・都を大和(奈良)から河内・難波高津宮(なにわたかつのみや)(大阪市)へ移す。
・高句麗王の伝記「好太王碑文(こうたいおうひぶん)」の倭の朝鮮遠征は、仁徳天皇と考えられる。
・困窮する民を見て3年間免税。水害を防ぐため堤防を築くなど、仁政をしいたとされる。
・ただし大仙陵(だいせんりょう)古墳(堺市)は疑問視されている。