2025年5月 – 天皇note

30代 敏達(びだつ)天皇(位572-585)

30代 敏達天皇(びだつてんのう)

生没 538年~585年(享年48)
在位 572年(35歳)~585年(48歳)

古墳/飛鳥時代

・29代欽明天皇の第二皇子

・敏達天皇の皇后は、異母妹の豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)(=33代推古天皇)。

・物部守屋と蘇我馬子が仏教の排仏、崇拝をめぐって対立。

・疫病や天然痘が流行。

 

29代 欽明(きんめい)天皇(位539-571)

29代 欽明天皇(きんめいてんのう)

生没 509年~571年(享年63)
在位 539年(31歳)~571年(63歳)

古墳/飛鳥時代

・26代継体天皇の第3皇子。

・仏教伝来。
ー『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』、『上宮聖徳法王定説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』(538)
ー『日本書紀』(552)

百済の聖明王より欽明天皇に、仏教の経典や、釈迦仏の「小金銅仏(しょうこんどうぶつ)」が献上された。

物部尾輿・中臣鎌子は反対。中臣家は代々神事を司る豪族なので、反対した。
(※藤原鎌足も最初の名前は中臣鎌子だが、これとは別人)

蘇我稲目は賛成した。

・大伴金村と物部尾輿を大連(おおむらじ)(軍事・裁判)に、蘇我稲目を大臣(おおおみ)(経済・外交)にした。

・大伴金村が、任那を百済に割譲した失政を問われ、大伴氏が失脚。

・以降、物部氏と蘇我氏が台頭して対立する。物部氏は仏教反対の「排仏派」派、蘇我氏は仏教推進の「崇仏派」派。

 

28代 宣化(せんか)天皇(位535-539)

28代 宣化天皇(せんかてんのう)

生没 467年~539年(享年73)
在位 535年~539年 69~73歳(在位4年)

古墳時代

・26代継体天皇の第二皇子。

・『日本書紀』には、清らかでおごり高ぶることのない、君子らしい人物とある。

・大伴金村、物部麁鹿火に加え、蘇我稲目らを大臣(おおおみ)とした。

・那津官家(なのつのみやけ)(博多湾岸・太宰府の起源)に、各地の屯倉(みやけ)から籾(もみ)を運ばせて非常時に備えた。

・新羅に攻められた任那(みまな)からの救援要請に対して、援軍を送るなど、外交も積極策を推し進める。

 

27代 安閑(あんかん)天皇(位531-535)

27代 安閑天皇(あんかんてんのう)

生没 466年~535年(享年70)
在位 531年~535年 65~70歳(在位4年)

古墳時代

・26代継体天皇の第一皇子。

・器量・武威に優れ、人君として相応しい人柄と伝わる。

・各地に屯倉(みやけ)(朝廷の直轄地)を設置した。

・五穀豊穣で民が飢えることもなくなり、天子を褒める声が天地に充満したともいわれる。

 

26代 継体(けいたい)天皇(位507-531)

26代 継体天皇(けいたいてんのう)

生没 450年~531年(享年82)
在位 507年~531年 58~82歳(在位24年)

古墳時代

・15代応神天皇の5世の孫・男大迹王(おおとのおう/おおどのおう)は、近江(滋賀)や越前(福井)の豪族だった。

・大伴金村に促されて河内国・樟葉宮(くすはのみや)で即位。20年後にようやく大和(奈良)に入った。

・養蚕や農業の振興に尽力した。

・筑紫国(645年に筑前国・筑後国に分割)で、地方豪族である「磐井(いわい)の反乱(527)」が起こる。

磐井は新羅と結んでいた。継体天皇は、物部麁鹿火(もののべのあらかひ/あらかい)を派遣し、これを鎮圧。

鎮圧後は、ヤマト王権の直轄地である屯倉(みやけ)を設定して、筑紫支配を強化した。

「岩戸山古墳(福岡県)」は磐井の墓とされる。石人、石馬などが出土した。

 

25代 武烈(ぶれつ)天皇(位498-506)

25代 武烈天皇(ぶれつてんのう)

生没 489年~506年(享年18)
在位 498年~506年 10~18歳(在位8年)

古墳時代

・24代仁賢天皇が崩御し、大臣の平郡真鳥(へぐりのまとり)が国政を欲しいままにした。

大伴金村がこれを征伐し、皇太子の小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせの わかさざきの みこと)が即位、武烈天皇となった。

・『日本書紀』には、武烈天皇は「悪逆非道の暴君」になったとあるが、その大げさなまでの記述は、次の26代継体天皇を正当化するためでは、ともいわれる。

『古事記』にはそのような悪行の記述は一切なく、「8年間治めたのち、譲位した」とのみ書かれている。

 

↓↓平郡真鳥を討つ大伴金村。


(月岡芳年@大日本名将鑑)

 

24代 仁賢(にんけん)天皇(位488-498) 

24代 仁賢天皇(にんけんてんのう)

生没 449年~498年(享年48)
在位 488年~498年 40~50歳(在位11年)

古墳時代

・24代顕宗天皇の兄。

・弟の顕宗天皇(弘計・おけ)が亡くなり、兄の億計(おけ)が即位、仁賢天皇となった。

・謙虚で温厚。父の仇である21代雄略天皇の墓を、弟が破壊しようとしたのをなだめた。

・11年の治世の間には、五穀豊穣、人口も増え、大いに繁栄したことが『日本書紀』にある。

23代 顕宗(けんぞう)天皇(位485-487) 

23代 顕宗天皇(けんぞうてんのう)

生没 450年~487年(享年38)
在位 485年~487年 36~38歳(在位3年)

古墳時代

・17代履中天皇の孫。

・兄の億計(おけ)が皇位に付こうとせず弟に譲り、弟の弘計(おけ)が即位し、顕宗(けんぞう)天皇となった。

 

22代 清寧(せいねい)天皇(位480-484) 

22代 清寧天皇(せいねいてんのう)

生没 444年~484年(享年41)
在位 480年~484年 37~41歳(在位4年間)

古墳時代

・21代雄略天皇の皇子。清寧天皇は生まれながらに髪が白かったため、父の21代雄略天皇は特別な霊妙さを感じたという。

遺跡名「白髪山古墳」。白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろ くにおしわかやまとねこのみこと)。

・民を慈しんで善政を敷いたとされる。

・父の雄略天皇が暗殺した、17代履中天皇の子、億計(おけ)・弘計(おけ)兄弟を播磨国で見つけ、たいそう喜び宮中に迎え入れ、跡継ぎにする意向を示した。(『播磨国風土記』志染の石室(しじみのいわむろ)(兵庫県・三木市))

21代 雄略(ゆうりゃく)天皇(位456-479)

21代 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)

生没 418年~479年(享年62)
在位 456年~479年 39~62歳(在位23年)

古墳時代

・20代安康天皇の弟。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)。

・埼玉県・稲荷山古墳から出土した鉄剣に「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)」とあり、これは雄略天皇のこととされる。辛亥年(471年)。

また熊本県・江田船山古墳でも同様に獲加多支鹵(ワカタケル)大王の名前が刻まれた刀剣などが出土。これらはヤマト政権の支配が広く、関東や九州にまで及んでいる証拠と見られる。

・『宋書』倭国伝の「安東(あんとう)大将軍・倭王武」とされる。

・養蚕を奨励するなど国力の充実に努めた。鉄資源を求めて朝鮮半島へも遠征。

・意にそぐわない臣下は容赦なく放逐するなど暴君としても知られる。

・『日本書紀』には葛城山の現人神(あらひとがみ)として「一言主神(ひとことぬしのかみ)」が登場。雄略天皇は一緒に狩りをした。これは葛城氏と天皇家の関係性を表すともいわれる。

・葛城山でイノシシを自ら倒した。

・『万葉集』の巻頭歌。「籠もよ み籠持ち(こもよ みこもち)・・」。若菜摘みの娘に名前を聞く(=妻問い)の歌。

 

19代 允恭(いんぎょう)天皇(位412-453)

19代 允恭天皇(いんぎょうてんのう)

生没 ?年~453年(享年?)
在位 412年~453年 (在位41年)

古墳時代

・18代反正天皇の弟。

・即位は当初辞退したが、皇后が厳しい寒さの中懇願したことで、ようやく受け入れた。

・『宋書』倭国伝の倭国王・済(せい)とみなされている。

・日本最古の温泉地・道後温泉に、允恭天皇の兄・木梨軽皇子と、妹が配流され、その地で心中したとされる。

 

18代 反正(はんぜい)天皇(位406-410)

18代 反正天皇(はんぜいてんのう)

生没 ?年~410年(享年?)
在位 406年~410年 (在位5年)

古墳時代

・17代履中天皇の弟

・歯が健康だった。

・『宋書』倭国伝の倭国王・珍(ちん)と見なされている。それが事実なら、反正天皇は宋から「安東将軍(あんとんしょうぐん)」の称号を与えられていたことになる。

・丹比芝籬宮(たじひしばがきのみや)(大阪府松原市)を築く。

・在位5年は五穀豊穣、天下太平であったという。

 

17代 履中(りちゅう)天皇(位400-405)

17代 履中天皇(りちゅうてんのう)

生没 ?年~405年(享年?)
在位 400年~405年 (在位5年)

古墳時代

・16代仁徳天皇の第一皇子。

・都と地方で文書のやり取りをする国司を設置。

・『宋書』倭国伝の、倭国王・讃(さん)と見なされている。

 

16代 仁徳(にんとく)天皇(位313-399)

16代 仁徳天皇(にんとくてんのう)

生没 257年~399年(享年143)
在位 313年~399年 57~143歳(在位86年)

古墳時代

・実在が確認できる最初の天皇と考えられている。

・都を大和(奈良)から河内・難波高津宮(なにわたかつのみや)(大阪市)へ移す。

・高句麗王の伝記「好太王碑文(こうたいおうひぶん)」の倭の朝鮮遠征は、仁徳天皇と考えられる。

・困窮する民を見て3年間免税。水害を防ぐため堤防を築くなど、仁政をしいたとされる。

・ただし大仙陵(だいせんりょう)古墳(堺市)は疑問視されている。

 

 

15代 応神(おうじん)天皇(位270-310)

15代 応神天皇(おうじんてんのう)

生没 200年~310年(享年111)
在位 270年~310年 71~111歳(在位40年)

古墳時代

・母は神功皇后。

・政権の拠点を大和地方(奈良)から河内地方(大阪)へと移す。「河内王朝」とも呼ばれる。

・多くの渡来人が来日。百済の学者・王仁(わに)が『論語』をもたらす。

・酒造・養蚕の技術も伝わる。

・応神天皇は「八幡神(はちまんしん/やはたのかみ)」とも同一視される。

(八幡神の発祥の地である宇佐八幡宮(大分)に、3歳の子供の姿で応神天皇が現れたなどの逸話が残るため。)

八幡神はその後、戦勝の神、軍神として武家から崇敬を集めるようになる。

14代 仲哀(ちゅうあい)天皇(位192-200)

14代 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)

生没 ?~200年(享年?)
在位 192~200年(在位9年)

神代

・ヤマトタケルノミコの第2子。

・仲哀天皇の妃は神功皇后(じんぐうこうごう)。神功皇后は天皇として即位していたのではという説もあった。明治時代にお札の肖像画にもなった。

・『日本書紀』には「神功皇后」が「卑弥呼」と同一人物のような書き方もされている。『魏志倭人伝』の「鬼道を行う」などの表記を使っている。

・仲哀天皇は神託に従わなかったので他界したといわれる。仲哀天皇の没後は、神功皇后が、皇子(後の15代応神天皇)の摂政となる。

・武内宿禰(たけうちのすくね)が神功皇后に仕えた。(12代景行天皇から5代の天皇に仕えたので計算上300歳になる?)
『古今著聞集』には、鎌倉幕府2代執権・北条義時が武内宿禰の生まれ変わりという話がある。

 

13代 成務(せいむ)天皇(位131-190)

13代 成務天皇(せいむてんのう)

生没 84~190年(享年107)
在位 131~190年(在位59年)48~107歳

神代

・12代景行天皇の子

・ヤマトタケルノミコトの異母弟

・蘇我氏の祖、武内宿禰(たけのうちのすくね)を大臣(おおおみ)として重用。

・国に造長(みやつこおさ)、県村(あがたむら)に稲置(いなぎ)を置く。

・地方行政に整備に力を注ぎ、天下太平の世が続いたという。

12代 景行(けいこう)天皇(位71-130)

12代 景行天皇(けいこうてんのう)

生没 前13~130年(享年143)
在位 71~130年(在位59年)84~143歳

神代

・11代垂仁天皇の第三皇子。

・景行天皇の皇子は双子。兄は大碓皇子(おおうすのみこ)、弟は小碓尊(おうすのみこと)。

・この弟のオウスノミコト(ヤマトオグナ)が、後にヤマトタケルノミコトとなる。

※『古事記』では「倭建命」、『日本書紀』では「日本武尊」と表記される。

・ヤマトタケルは、熊襲(クマソ)や東国を討伐した。「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」で戦う。

またこのような「国偲び歌」を読んだ。

「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる 倭しうるはし」

(訳:倭(大和)は国の中で最もすばらしい場所だ。青々とした垣根のように重なり合った山々が取り囲む大和。うるわしき我がふるさとよ。)

ヤマトタケルが亡くなると、魂は白鳥になり大和へ飛んでいったと伝わる。

(映画『日本誕生』)

11代 垂仁(すいにん)天皇(位前29-70)

11代 垂仁天皇(すいにんてんのう)

生没 前69~70年(享年130)
在位 前29~70年(在位99年)41~139歳

神代

・10代崇神天皇の第三皇子。

・伊勢神宮の創始(伊勢五十鈴川のほとりに天照大神を祀った祠を建てさせる)。

・「相撲節会(すまいのせちえ)」が相撲の起源になる。大和国・当麻邑(たぎまむら)の 蹶速(けはや)と、出雲の野見宿禰(のみのすくね)との戦いで野見宿禰が勝つ。

・野見宿禰の提案で、殉死を禁じ、埴輪に変えた。

・皇后・狭穂姫(さほひめ)は、兄・狭穂彦王(さほひこのみこ)の命令で垂仁天皇を短剣で討とうとしたが失敗。垂仁帝は狭穂姫を許そうとしたが、狭穂姫は兄とともに自ら命を絶った。

・垂仁天皇は、田道間守(たじまもり)に、常世国(とこよのくに)(不老不死の理想郷)から、不老不死の妙薬、橘を持ち帰るよう命じた。